1951年、かつてのチベット政府は、中国の軍事的脅威のもとで中国政府と「17条協定」を結ぶよう強いられました。この協定によってチベットは名実ともに中国の一部になったのですが、協定の内容が守られていれば、まだマシだったと言えます。
当時、中国共産党は中国の他の地方で共産主義による急速な「民主改革」を進めていましたが、この協定では、チベットの事情に配慮して「チベットには改革を強制しない」と約束していました。
しかし現在にいたるまで、中国がやったことは一貫して正反対。「銃口から政権が生まれる」という有名な言葉どおり、中国はチベットにも銃口を向けました。仏教国であったチベットの95%以上の僧院を破壊し、多くの僧侶を還俗させ、経典を焼き、仏像を持ち去って溶かしました。また、僧院を中心とした社会の仕組みを壊し、チベット人の土地を勝手に分配し、遊牧民から放牧地を取り上げて定住させようとしてきました。
中国はこれを「封建農奴制からの解放」「民主改革」などと呼び、多く見積もっても600万人しかいないチベット人に対して8万以上の人民解放軍を送り込んで、求められてもいない「改革」を無理矢理進めたのです。
ダライ・ラマ14世がチベットを去った後、中国は中央チベットに「チベット自治区」を成立させ、着々とチベット支配を進めていきました。しかし、チベット人の中国への抵抗は根強く、中国に従わない者は容赦なく投獄されたり殺されました。
もともとそれほど多くの人間を養うような肥沃な土地の少ないチベットに軍人などが急に流れ込んだために食糧事情が悪化し、大量の餓死者もでました。
60年代から70年代にかけては、輪をかけて凄惨な「文化大革命」という暗黒時代でした。チベット風の伝統はすべて否定され、残っていたわずかな僧院も破壊されました。
「民主改革」「文化大革命」を通して、中国による拷問や戦闘、餓えのために死亡したチベット人は120万人にのぼるという統計もあります。
外国人観光客がチベットを訪れることができるようになり、1980年代は「雪解け」の時代などと言われたものです。
しかし、それも一時のこと。活気を取り戻したチベット人たちが反中国やチベット独立を訴えはじめると、中国は再び力で抑えにかかりました。反中国の抗議行動はしだいに大規模になり、中国はついに1989年3月、ラサに戒厳令を敷いて外界から遮断してしまいます(このときのチベットのトップが、今の中国の国家主席・胡錦濤でした)。1990年5月に戒厳令は解除されましたが、反中国的な行動に対する強攻策は今も変わっていません。
90年代半ば以降、市場経済を採り入れた「改革開放」政策のもとでチベットは経済的には発展したようにみえます。確かに、食べるものに困らなくなったという点では「豊か」になったと言えるでしょう。
僧院などの宗教施設は形だけは復活しましたが、僧侶の数に制限が設けられ、共産党のチームが駐屯して「愛国教育」と称する講習を行なっています。そこでは、チベット人の指導者であるダライ・ラマ法王をののしることが強制され、嫌がる者は僧籍を剥奪されて追い出されたり「分離主義者」として投獄されて拷問を受けたりします。ラサでは、96年頃から寺院を含む公の場所でダライ・ラマ14世の写真を掲げることが禁止されました。
チベット文化は教育面でもおざなりにされてきたといわざるをえません。長い中国支配の下でチベット語を教える教師が減り、したがって、チベットを学ぶ機会が減りました。この悪循環で、中国語しか話せないチベット人が増えています。多くの役所や職場を牛耳っているのは中国人ですから、中国語ができないと就職もままなりません。中国当局は「チベット人幹部がたくさんいる」と主張しますが、肩書きはあっても実権のない場合が多いのです。
中国支配に抵抗するデモなどは今もたえることなく、「ダライ・ラマ万歳」「チベットに自由を」などとスローガンを叫んだだけで、裁判もなしに過酷な環境の刑務所に投獄され、労働矯正キャンプに送られ、拷問を受け、死刑になる人もいます。
こうして中国人の数を増やしておいて、チベット人には産児制限を押しつけ、避妊や中絶を強制しているという報告もあります。
このままでは現在「チベット自治区」「チベット族自治州」「チベット族自治県」などと名前がついている民族自治地域でさえ、チベット人が少数派になってしまうでしょう(すでに多くの地域でそうなっています)。ひとつの民族を物理的に抹殺してしてしまう「民族浄化」が、ゆるやかな形で確実に進んでいるといえます。そうすれば、いずれチベット問題という問題じたいがなくなります。これが中国が求める「最終的な解決法」かもしれません。