ツォギェル・ラツォの魔女(?)
(2001年夏)

チベット文化研究会会報(2002年1月号)に掲載されたものに加筆し、写真を一部変更したものです。

 幸いなことに、今年はダクユル渓谷を訪れる機会に恵まれた。ダクユルはラサの真南、ヤルン・ツァンポ北岸にある聖地。ニンマ派6大本山の一つであるドルジェ・ダク寺からスタートし、グル・リンポチェゆかりの洞窟ダク・ヤンゾン、ゾン・クンブムを巡るのが巡礼ルートだ。今回、実は逆ルートをとったのだが、細かい経緯は省いて、とりあえず巡礼の最後の地となるはずだったツォギャル・ラツォのお話に絞る。



▲幽玄んんん〜!って感じの湖面
 ツォギャル・ラツォは、その名の通り、グル・リンポチェのチベット人の奥さんイェシェ・ツォギャルゆかりの湖――というより、池だ。
 まわりは土っぽい地味〜な景色なのに、その池の周辺だけは緑の木々で覆われている。
 池にはイェシェ・ツォギャルのラー
(「魂」と訳していいのだろうか?)が宿っているとされ、その水面には、過去や未来が映るらしい。月明かりに照らされ、ひっそりとたたずむその水面を見つめていると、何かが見えてしまっても不思議はなさそうな雰囲気だ。


 池の北岸にはツォギャルのラーシン(命の木)があり、その北にツォギャルリンという小さなお堂が建っている。カシマ・ラカンとも呼ぶようだ。
 ラカンの中には、グル・リンポチェやドルジェ・ネルジョルマの像がまつられていた。そして、正面右側のガラスケースの中にまつられた木製の物体の形は、一見して乳房。これはイェシェ・ツォギャルの母君のオッパイのランジュン(その形に自然になったもの)だそうな。イェシェ・ツォギャルはこの木の幹から出る母乳で育ったそうである。ははは。笑ってないで最後までおつきあいください。

けっこう、それっぽい形→

▲さすがカンドと呼ばれるだけはある美貌と風格? 他の尼さんは坊主頭

 ツォギャルリンには尼さんが4人いた。宿坊に泊めてもらった翌日、朝早くからずいぶん騒がしいなあと思ったら、一人がこう言う。
「ねえ、写真撮ってよぉ」
 すでに出発準備を整えていたが、まあいいだろう。
 彼女たちは真新しい袈裟や帽子や花瓶に活けた花などを持ち寄って、すっかり記念撮影モード。やれお堂の前だ、やれお花畑だと撮影場所の注文もいろいろうるさい。
 一人特別扱いだったのが、カンド(空行母)と名づけられた黒髪が麗しい長髪の尼さんだ。新しい袈裟を着るのも、まずカンド優先。普通の坊主頭の3人は、ああでもないこうでもないとカンドのスタイリストやメイクさんに徹している。カンドは照れてニコニコ笑いながら、合掌してみたり、花を手にしてみたり、注文に応じてポーズをとってみせる。それを見て、他の3人はキャーキャー嬉しそうに騒ぐのだ。
 そんなことが1時間あまり続いた。
 一通り撮り尽くした僕たち(まだ書いてなかったが、男二人で行ったのだ)は部屋に戻り、まったりと茶などをごちそうになっていた。
 なんだか、とっても平和な時間が流れていた気がする。尼さんの一人が、この言葉を口にするまでは。
「まだ行かないの? 船は十一時よ」

 僕たちはツォギャル・ラツォから南へ向かい、ヤルン・ツァンポを船で南岸に渡る予定だった。そうすれば、その日のうちにラサに戻れる。
 問題は船が1日に1便か2便しかなく、その船が出る時刻がはっきりわからないということだ。が、その船は11時発であることが尼さんによって今あきらかになった。
 すでに10時半。
 間に合うはずがない。
 とりあえず船着き場に急いだ。尼さんたちは無邪気に手を振って別れを惜しんでくれた。
 船着き場までは歩いて1時間半もかかるが、少しだけ希望があった。この地の公共交通である乗り合いトクラターは、ものすごくスピードがノロいうえに、やたらと休み休み進む。途中で追いつけるかもしれない。そもそもチベット人は時間にルーズだ。いつものように遅れてくれればいい。実際、その3日前に南岸から北岸に渡ったときは何時間待たされたことか。
 ヌプ・サンギェ・イェシェの生地であるダクタ村を通り過ぎ、麦畑の中を横切り、羊の群れの間を縫いつつ、ヤルン・ツァンポを目指した。
「今日はもう船はないよ」
 とっくの昔に船が出てしまった船着き場にいたトラクターのドライバーたちが、あっさりと言い放った。こんなときだけなんで時間に正確なんだよ。

よってたかって旅人をたぶらかした尼寺のラカン内に描かれていた女尊エカジャティ

 あいつら船の時刻を知ってて、なぜ記念撮影大会などを、しかも1時間もやらせたのか? 何かの陰謀か? カンドは旅人を捕らえて食う魔女ではないのか?――尼さんたちの笑顔を思い出し脱力感がつのるばかり。
 しかし! まだ希望は残されていた。
 少し(!?)上流にドルジェ・ダク寺の船着き場がある。川沿いを歩いてドルジェ・ダクまで行って、そこで対岸に渡ればいいのだ。あちらには遅い時間まで船があることはわかっていた。
 地図で見ると15キロほど。念のためトラクターのドライバーたちに聞くと、
「3時間で着くよ」
 楽勝じゃん。と思って僕たちは歩き始めた。飲み水が少ないのが気になったが、3時間ぐらいはもちそうだ。

▲あの丘を越えたら……と何度思ったことか。越えても越えても砂丘が続くばかり

 が! 行けども行けども着かないんだ、これが。
 ヤルン・ツァンポ沿いには緑はまったくなく、延々と砂丘のような砂地が続いていて、歩きにくいったらありゃしない。しかも、こういうときに限って、見事な青空! 強烈な日射しをさえぎってくれる日陰はまったく見あたらない。
 飲み水が尽きた。
 川の水をくんだが、折しも雨季。家畜のフンで不衛生に違いなく、どうしても耐えられなくなったら飲もうと悲壮な覚悟を決めた。
 4時間、5時間……さすがに、もう引き返せない。でも、ドルジェ・ダクは見えてこない。
 ようやくドルジェ・ダクにたどり着いたのは7時間後。暑いのに汗が出ない。脱水症状だ。すぐさま村の売店で甘ったるい炭酸飲料を買い、たてつづけに2本飲み干した。

 とっぷり暮れたヤルン・ツァンポを船で渡り、真っ暗な中、3台の車をヒッチで乗り継いでラサにたどり着いたときには12時近かった。

このとき同行いただいた飯田泰也さんによる紀行が
風の旅行社のサイトに密かに掲載されています。

「2001年ウ・ツァンの旅」第1回
第2回第3回

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